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    *死は誰のものか

    以前ブログの『具体的な終活』の中で延命治療について書きました。

    その中で安楽死と尊厳死の違いを説明しましたが、自分の最期を考えることは終活をする上で大切なことです。

    スイス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、アメリカのオレゴン州やワシントン州では法的に認められている安楽死ですが、患者からの自発的な要請に応えて医師が執行した場合に責任を問われないという形での承認になっています。

    一方、終末期の患者本人の意見に基づいて過剰な延命措置をせずに人間としての尊厳を保って自然な死を迎えるのが尊厳死です。

    自分の最期はどうしたいか、その希望を家族や医療者に伝えておくことはとても重要です。

    延命治療を希望しないのであれば、自分の意思を全うするためにも尊厳死の意向を示す書類、尊厳死宣言書(リビング・ウイル)を作成するのがいいでしょう。

    リビング・ウイルは、本人が医療者からの説明を受けた上で、意思表示をすることができなくなった場合にどのような医療的処置を望むかに関して事前に詳細を指定する書類です。

    尊厳死宣告書(文例)

    (リビング・ウイル)

    私〇〇は、私の傷病が不治であり、かつ自らの死期が迫っている場合に備えて、私の家族及び医療にかかわっている方々に以下の要望を宣言します。

    ①私の傷病が、現代の医学では不治の状態であり、既に死が迫っていると診断された場合には、ただ単に死期を引き延ばすためだけの延命治療はお断りいたします。

    ②ただしこの場合、私の苦痛を和らげるためには、麻薬などの適切な使用により十分な緩和医療を行なってください。

    以上、私の宣言による要望を忠実に果たしてくださった方々に深く感謝申し上げるとともに、その方々が私の要望に従ってくださった行為一切の責任は私自身にあることを附記いたします。

    記入日   年  月  日

    氏名                           印

    電話番号                                

    生年月日                                

    性別[    ]                                 

    「死は誰のものなのか」

    本人の自己決定だけを主張するのであれば、安楽死における患者本人の「死ぬ権利」を重視する流れに抗することは難しくなってきます。

    生まれてくる現場においても、「命を授かる」側面に加えて生殖医療によって「命を作り出す」側面が出てきたために、出生前診断などの新たな問題が発生してきています。

    尊厳死の問題は、医療技術の進化に伴って本人の自己決定権を踏まえた上で「死は誰のものなのか」という問題に関して考え直していかなければならない現実を突きつけているのではないでしょうか。

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    *さまざまな喪失

    私は終活ライフケアプランナーの資格を習得するにあたり、生きている間にする終活についてはもちろんのこと、終末期や死生観についても学びました。

    終末期の方とどう向き合うのか、死は誰のものなのか、死ぬ前はどういう状態になるのかなど、重い内容に勉強中は気分が落ち込むことも少なくありませんでした。

    しかし、その中で『あいまいな喪失』という言葉を知り、悲しみに対する向き合い方も少しですが分かったような気がします。

    東日本大震災による行方不明者の家族支援のために広く認知され始めた概念で、『あいまいな喪失』には「さよならのない別れ」と「別れのないさよなら」という二つのタイプがあります。

    家出や行方不明者のように、身体が不在になってしまったのに心の中にはまだその人がしっかりと存在しているようなタイプの喪失が「さよならのない別れ」です。

    一方、認知症やワーカホリック、家庭内別居のような状況では、目の前にその人の身体が存在しているのに心の中では「父親・母親」あるいは「夫・妻」としての相手はすでに不在になってしまっているのが「別れのないさよなら」です。

    あいまいな喪失という概念を知っておくことで、こうした状況の複雑さによって悲しみが複雑化していくことを予防できます。

    あいまいな喪失に対処していくためには、「いないけどいる」、「好きだけど嫌い」という一見すると矛盾するようなものの見方を受け入れていくことが大切になります。

    家庭内での見解の相違を許すこと、家族における役割を固定化させてしまわないこと、コミュニティの中に家族のように接することができる人を見つけていくことなどが必要になります。

    他にもさまざまな喪失があります。

    中絶や誕生死などにまつわる悲しみに関しては本人がその気持ちを語ることは社会的にほとんど認められていません。

    こうした喪失は『承認されない喪失』と呼ばれています。

    また、成長過程においても喪失体験はあります。

    下の子が生まれたために、それまで独占していた親の愛情が弟や妹に移ってしまったと感じるのも喪失の一つです。

    大切な人を亡くした時、失った人が自分にとってどんな意味を持っていたのかを見出せると、その人のいない人生を生きていく心の準備ができます。

    悲しみは消えるものではありませんが、泣き笑いながら思い出せるようになると、人生の一部として抱えながら生きていけるようになるのです。

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    *高齢者終末期の3パターン

    終活を進める中で、やはり意識しなければならいのが「死」についてです。

    これがあるから終活をしたくないという人もいるのではないでしょうか。

    私のような40代と80代の人では「死」に対する考え方も全然違うと思います。

    40代の人がこのまま健康に過ごすことができれば、不慮の事故にでも遭わない限り「死」はまだ先のことと思えます。

    単なる順番からいえば80代の人が先に亡くなるでしょう。

    しかし人生は分かりません。

    先日お坊さんのYouTubeを観たのですが、視聴者さんからの質問にお坊さんが答えるという内容でした。

    その視聴者さんは寿命に関する質問をしていたのですが、「たくさんの死を見てきた私でも命に関しては分からないことが多い」とお坊さんは仰っていました。

    『寿命がいつ来るかは分からない→諸行無常

    死は歳をとった順番ではない。

    知らず知らずのうちに勝手に期待して、間違った考えを持っている→幻想の安心感』

    と、説いておられました。

    確かにそうですよね。

    悲しいことですが、生後すぐに死んでしまう赤ちゃんもいます。

    100歳を過ぎた高齢者もいます。

    寿命は誰にも分かりませんが、ある程度年齢を重ねると自分の最期を考えたりしませんか?

    病気で死ぬのか、老衰なのか・・・

    今回は、高齢者の終末期について説明したいと思います。

    がん

    がんの場合は、死亡の数週間くらい前までは比較的機能が保たれ、急変して死に至るというパターンが見て取れます。

    体調不良から病院に行き、余命宣告をされたとしてもある程度準備しておくことができます。

    手術や抗がん剤治療などをして病気とつきあいながら生活をしている人もいるでしょう。

    しかし急変によって、希望していた場所での最期が迎えられないこともあります。

    臓器の慢性疾患

    臓器の慢性疾患の場合には、悪化と回復を繰り返しながら最期を迎えるパターンが見て取れます。

    風邪が引き金になって悪化する場合も多いので、感染予防が大切になります。

    また、経過の後半では治療しても回復するかの予想が困難となるため、「今後良くなるだろう」という家族の予想が裏切られて後悔が残ることも少なくないようです。

    死に対する心の準備をしておくことも重要です。

    老衰や認知症

    老衰や認知症の場合には長い時間にわたり徐々に機能が低下していきます。

    長期間にわたるため、家族の介護負担についても考えなくてはなりません。

    本人の意思を確認することは難しくなりますが、ある程度予測しうる経過をたどって、住み慣れた環境や関係の中で最期を迎える可能性は高くなります。

    高齢者の終末期には3つのパターンがあることが知られています。

    どのような最期になるかは分かりませんが、死ぬその前までどんな人生を送ってきたのか、どのように生きてきたのか、そこが重要だと私は思います。

    for a happy ending(幸せな結末のために)

    「死」について考えることで、今を大切にできるのではないでしょうか。

    どんな老後を送りたいか、どんな最期でありたいか、ぜひ自分自身と向き合ってみてほしいです。

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    *親と子のジェネレーションギャップ

    これは完全に『私調べ』だが、私は終活に関するアンケートをとっている。

    対象者は40代〜80代の男女。

    「いつ頃、終活を始める予定ですか?」という質問にやはり多かったのが「60歳頃から」という答えだった。

    一般的な回答であると思う。

    すでに60代以上の方は「終活をする予定はない」または「80代」と答えた方もいた。

    中には身の回りの不用品を処分したり、知人に譲ったりと断捨離をしている方はいた。

    私が終活を勧めるのは高齢者だけではない。

    40代・50代の方にも終活を勧めている。

    いや、心構えとして40代・50代の早いうちから知ってもらいたいと考えている。

    終活を勧める中で難しいなと感じるのが世代間ギャップである。

    40代・50代の方には比較的話を進めやすいが、私の母を含め、60代以降の方にはなかなか理解してもらえないのが現状だ。

    そもそも親世代に”終活”や”断捨離”といった言葉が浸透していないのだ。

    知っていたとしても、どこか他人事のように思っている気がする。

    断捨離に関していえば、私の母もそうだが「いつか使うから」「昔デパートで買った高い服だから」と言って使わないであろう物をしまい込んでいる。(しまい込んでいる時点で使わないのだ)

    こちらとしては何でもかんでも捨てろと言っている訳ではない。

    もちろん60代以上の方で、不要な物に囲まれずコンパクトな生活をしている方もたくさんいる。

    そういう書籍も数多く出版されている。

    しかしそういう方は一部で、大半の親世代は昔の物が捨てられず大事にとってあるのだ。

    私は母と同じ敷地内に住んでいるため生活の様子を時々チェックすることはできるが、親元を離れて暮らしている子は、たまに帰省した時に実家にある物の多さにビックリすることもあるだろう。

    親が亡くなって片付けをするのは結局子である私たちなのだが、そんなことはお構いなしな気がする。

    本当に大切な物、死ぬその時まで置いておきたい物は捨てる必要はない。

    しかし高齢になるにつれ、家の中が物で溢れていると危ないのだ。

    転倒の危険、棚の上から物が落ちる危険、万が一火事を起こしてしまった時の火の回りの速さ・・・

    できればスッキリした場所で心に余裕を持ちながらゆったり生活してほしいのは子の願いでもある。

    独居老人がセルフネグレクトになり、家がゴミ屋敷になってしまった事例もたくさんある。

    元気で身体が動くうちに身の回りの物を少し見直してもらいたいのが子の本音である。

    では、子が親に終活を勧めるにはどうすればいいのか?

    いきなり「終活してほしい」と言っても通じない。

    私のように毎日顔を合わせて会話もたくさんしている親子関係ならまだしも、実家を離れ、たまにしか会わない子どもから終活の話を切り出されても親は困惑するだろう。

    「早く死ねと言ってるのか?」「財産を狙っているのか?」とも取られかねない(笑)

    そんな時は、帰省などのタイミングで家族が集まる機会にでもまずは「どこか旅行とか行きたい所はない?」「やりたいことはない?」と、親の話に耳を傾けることから始めてはどうだろうか。

    普段離れて暮らしているのであれば、親がどんな持病を持っているのか、かかりつけの病院はどこなのか知らない子どももいるだろう。

    困っていることはないか、親の体調を気遣いながら色々な情報を聞き出すことで、何かあった時に行く病院を把握できていればこちらも安心である。

    急に入院することになっても焦らなくていいように、健康保険証やマイナンバーカード、おくすり手帳などはまとめておくことも大事である。

    入院給付金や一時金が入る民間の医療保険への加入の有無や入院費用を支払うためのキャッシュカードの暗証番号も聞いておければ子が立て替えることもなく支払いができるので知っておいた方がいいだろう。

    子が複数人いる場合は、兄弟姉妹間で情報を共有しておくことで『もしものとき』にも連携することができる。

    親の話に耳を傾けるということは、家族のルーツを知る機会でもある。

    家系図を見ながら家族の歴史を聞くことは相続対策になると、以前読んだ本にも書いてあった。

    両親の出会い、結婚。

    もしかしたらその前に結婚歴があり、自分たちの知らない異母兄弟がいた・・・そんなケースもあり得る。

    隠すつもりはなく、伝えてなかっただけという場合もあるだろう。

    親が亡くなった時に誰が相続人になるのか、以前ブログで書いたように家系図を作成しておくことは終活をする中で重要なのである。

    自ら率先して終活してくれるなら話は早いのだが、どうやら親世代は終活に対して前向きではない方が多く見られたので、私もそこが課題である。

    いつやってくるか分からないことに備えるのは難しいかも知れないが、早いか遅いかというだけで、誰しも終わりの時は必ずやってくる。

    自分の親に終活を勧めるなら、まずは親の話に耳を傾けること。

    大切なのは会話をすること。

    断捨離などは終活の入り口で、本当にしておかなければならないことや話し合っておかなければならないことは他にもたくさんある。

    そこに気付いてもらえるよう終活を勧めるのが私の役目である。

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    *孤独死は本当に孤独なのか?

    これまでベールに包まれていた実態として、警察庁が5月に初めて出した統計で、今年1月〜3月にひとり暮らしの自宅で亡くなった65歳以上の高齢者はおよそ1万7000人という記事を読んだ。

    このままのペースで推移すると、独居状態で死亡する高齢者は年間約6万8000人になると推計されている。

    今や孤独死で最期を迎えるということは決して珍しいケースではない・・・と。

    孤立死(孤独死)・・・誰にも看取られることなく息を引き取り、その後、相当期間放置される悲惨な最期。

    (内閣府「高齢社会白書」より)

    統計によると、孤独死は男性が多く、7〜8割が60歳以上。

    女性の方が長生きなのに、男性の方が多いのはなぜか?

    男性は生涯未婚率が高く、結婚していたとしても離婚をしたあとは家族と離れて暮らす人も多く、単身世帯が増加したことが理由として挙げられている。

    だが女性も安心してはいられない。

    生涯未婚率や熟年離婚が増えている昨今、夫と死別したり子供も独立して一人暮らしとなった今、60〜70代の女性は『孤独死予備軍』と言われている。

    孤独死が増えている理由としては、高齢者と社会の接点が少なくなったこと。

    家族と一緒ではなく単身で暮らしたり、近所や友人知人と交流がないなど。

    前回のコラムで書いたが、定年退職してから外に出なくなった男性は家に閉じこもりがちになったりしていないだろうか。

    仕事一筋で生きてきた男性は会社に行って仕事をするという人生のほとんどを占めていたものが無くなり、急に社会から取り残された感を味わうことになっていないだろうか。

    男性と女性では、この点でも差が出ているように思う。

    しかし、精神科医の和田秀樹さんは言う。

    「孤独死は理想的な死に方だ」と。

    なぜか?

    よく考えてみると、死ぬ直前までは元気だったから。

    俗に言うPPK(ピンピンコロリ)というやつだ。

    病院のベッドで天井を見つめて死ぬのではなく、住み慣れた自宅で亡くなるのは当人にとって幸せなことではないだろうか。

    ひとりであることを受け入れ、しっかり準備しておく方が心や時間にゆとりが生まれ、最期まで生き切ることができる。

    そう考えれば、ある意味孤独死は理想的な死に方というのも納得である。

    ではなぜ「孤独死=惨めな死」という風に認識されているのか。

    それは、遺体をなかなか見つけてもらえないというイメージがあるからだろう。

    死後誰にも見つけてもらえず、長期間放置された状態で遺体が腐り異臭が出ていることもあるからだ。

    記事を読んでいて気になったのが、一人暮らしだけではなく『同居』の状態でも見つけてもらえない場合があるということ。

    こんな事例が書かれていた。

    2階に住む親と1階に住む子の交流がなく、親が息絶えたことに子が1週間気付かないというケース。

    また、リビングで亡くなった夫を認知症の妻が「お父さんが寝たまま臭くなった」と見守り、1ヶ月放置したケース。

    さらには、親の介護をする50代の子の体調が急変して亡くなり、続けて80代の親が亡くなるという『ダブル孤独死』のケース。

    超高齢化に伴って、孤独死のパターンも多様化しているようだ。

    では、長期間気付いてもらえない惨めな孤独死を防ぎ、『理想の孤独死』を叶えるためにはどうすればいいのか。

    「早く見つけてもらえる手を打っておく」ことだと識者は口を揃えている。

    家族や友人を頼れない場合は、官民のサービスを利用するのが良い。

    例えば、東京都板橋区なら『高齢者緊急通報システム』というのがあるらしい。

    民間の警備会社も見守りサービスを提供しており、ALSOKの『みまもりサポート』やセコムの『親の見守りプラン』というものがある。

    皆がよく使っているであろう LINEにも『エンリッチ見守りサービス』がる。

    各種、有料・無料プランがあるようなので自分に合ったサービスを検討してみてはどうだろうか。

    何度も言うが、終活の中で一番大切なのは意思表示をしておくことである。

    お葬式やお墓のことも大事だが、自分が死ぬまでのこと、どういう最期を迎えたいかを決めておくことが重要である。

    延命治療を含め、自分の死を誰かに決定させることはあってはならない。

    自分の準備次第で、孤独死は極上にも悲惨にもなる。

    どのように生きて、どのように孤独死を迎えるかが大切なのである。

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    *『終活』と『老活』

    少し前から『老活』という言葉を耳にするようになった。

    終活が専門の私は”老人がする終活”のことかと思っていたが、どうやら違うようで終活は人生の終わりに備える活動なのに対して、老活は自分らしく老後を過ごすための活動のことらしい。

    定年を迎えて第2の人生を考え始めた時ぐらいから、人生の締めくくりまでを指すらしく、やりたかった事や思い描いていた夢を叶えるために活動(準備)することを『老活』というのだそうだ。

    仕事をしていた時は忙しくてできなかったボランティアや習い事、旅行の予定を立てるのも『老活』の一環だと思う。

    定年退職をした人が(特に男性)社会との関わりがなくなり、家に閉じこもりがちという話もよく聞く。

    今まで仕事一筋で趣味もなかった人が定年になり、一気に老け込むというのも分かる気がする。

    最近では定年退職後も身体が動けるうちは働くのが一般化されつつあるが、残りの人生は仕事以外で楽しみたいという人もいるだろう。

    そういう人は『老活』で趣味探しをしてみるのはどうか。

    一人で楽しむ趣味もいいが、できれば誰かと関わりが持てる趣味をお勧めしたい。

    社会と繋がり、誰かとコミュニケーションをとることで認知症予防にもなる気がする。

    何より、もし何か起こった場合に気付いてもらえる可能性が上がるのではないか。

    いつも集まる場所に顔を出さなかったら、何かあったのではないか?と誰かが気にしてくれる。

    そういうコミュニティは年齢を重ねるほど重要になってくる。

    どんな趣味であれ、多少のお金はかかるだろう。

    そのためにも老後資金はしっかり管理しておいてほしい。

    あとは自身の健康だ。

    介護が必要になったら様々なサービスを検討すればいいが、まずは健康でいること。

    自分が気分良く、楽しい気持ちで毎日を過ごせるよう、『終活』の前に『老活』をしてみるのもいいかも知れない。

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    *在宅介護から施設入所へのターニングポイント

    今年90歳になる祖父は、ほんの数ヶ月前まで一人暮らしをしていました。

    数年前、まだ要介護1の時は割としっかりしていて、祖母を亡くしてからの約30年間一人暮らしをしていたこともあり、簡単なご飯は自分でできるし特に心配することもありませんでした。

    その頃は自分の意思表示もあり、家族が勧めるデイサービスなども「そんな所には行かない」と頑なに断られ続けていたのです。

    しかしだんだんと薬の飲み忘れがあったり、服を着替えなくなったり(多分お風呂に入っていなっかた)基本的な生活ができなくなってきました。

    そしてやっと受け入れてくれたのが在宅ヘルパーさんです。

    それでも最初の頃は「別に来てくれなくていい」と機嫌の悪い日もありました。

    せっかくヘルパーさんが来て生活の手助けをしてくれるのに、ヘルパーさんが来るまでに夕食を済ませ、洗い物まで自分でしている状態でした。

    何のために来てもらっているのやら・・・という思いで家族は見守っていましたが、日が経つにつれて祖父もヘルパーさんが来るのを楽しみにしているようでもありました。

    私や母は祖父に対してついつい口うるさく言ってしまっていました。

    今までできていたのになぜできないのか?

    こちらの言っていることを全然聞かない!

    認知症の家族に対して毎日がこんな葛藤の繰り返しです。

    しかしヘルパーさんは優しく、いつも祖父優先の会話をしてくれていました。

    介護をする側の心構えの一つに『介護が必要な人の尊厳を保つ』ということがあります。

    しかし私や母は何もできなくなった老人として接していたのです。

    これは本当に反省すべき点ですが、実際に家で介護をするというのは綺麗事ではできません。

    時々事件として介護に疲れて殺してしまったというニュースを見ますが、全く理解できないこともないと思いました。

    認知症の祖父を一人暮らしさせているとはいえ、一日中ずっと見張っている訳にもいかないので、正直一人の時は何をしているのか分かりません。

    危険だと感じた行動がいくつもありました。

    祖父を見ていて思ったのが、高齢者は一年で変わるということです。

    去年できていたことが今年はできなくなっているのです。

    小さい子供が一年ごとに成長して去年できなかったことが今年できるようになるのとは逆で、歳を重ねるごとにできないことが増えていくのです。

    ヘルパーさんにお風呂を促され、浴室に行ったはいいがそこからどうお風呂に入っていいのか分からなくなったり、お風呂から出てきて体は拭いたがその後パジャマを着ることに頭が回らず裸のまま座っていたりします。

    車の運転をしていた頃も、最後は車に閉じ込められて(ロックがかかっていただけ)出られなくなり免許証を返納させました。

    車の代わりに電動自転車にしてからも最初の頃は良かったのですが、次第に充電の仕方が分からなくなったり、転倒して自分で起き上がることができなくなったので自転車も取り上げました。

    色んなことを制限させるのは可哀想だとも思いましたが、事故につながる危険を考えたら仕方ありませんでした。

    人によっても違うとは思いますが、高齢者の一年というのは確実に去年とは違うと思っておいてほしいです。

    私が早めの終活を勧めるのはそこに理由があります。

    今、面倒だと思っていることを来年やりますか?

    先延ばしにしているうちに意思表示ができなくなるかも知れません。

    もしかしたら寿命が来てしまうかも知れません。

    一年ほど家での介護をしていたのですが、母と相談して施設に入所させることにしたのは、一人暮らしをさせておくのに限界を感じたからです。

    訪問販売を契約してしまったり、昼間の徘徊があったので常に誰かがいる施設の方が祖父も安心して生活できると思い決断したのですが、我が家の場合は本当にタイミングが良く、予約してから早い段階で入所できました。

    地域や施設の種類にもよると思いますが、⚪︎年待ちとか普通にあるみたいですね。

    入所した当初は「こんな所イヤ」とか言い出さないか不安がありました。

    初めての面会の時は一度だけ「帰りたい」と言いましたが、その次からは聞いていません。

    もう家の存在を忘れてしまったのかも知れません。

    でも、「ここの人はよくしてくれる」と職員さん達に対する感謝の気持ちは持っていました。

    職員の方も「入って来られた時より穏やかな顔をしている」と言ってくれます。

    祖父が望んでいた生活かどうかは分かりませんが、面会に行くとニコニコしている祖父を見て、私も母も穏やかな心で接することができているのは間違いありません。

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    *意思表示の重要性

    私は終活の中で自分の意思表示をしておくことが一番重要だと考えている。

    病気やケガの損傷で脳の機能が止まった時、あるいは認知症になった時などは自分の意思を伝えることができなくなってしまう。

    これは怖いことだと思う。

    家族や周りの人があなたの寿命を背負うことになるからだ。

    介護や医療(延命治療)に関しては、早めに家族と話し合っておくことを切に願う。

    少し前に「名医たちが明かす”私は延命治療を受けたいか受けたくないか”」という記事を読んだ。

    日本医師会では『生命維持処置を施すことによって、それをしない場合には短期間で死亡することが必至の状態を防ぎ、生命の延長を図る処置・治療のこと』というのが延命治療の定義だが、曖昧な部分もあるみたいで病気によっても医師によっても違うらしい。

    人工栄養・人工呼吸・人工透析はもちろん、つらく苦しい抗がん剤治療も延命治療と捉える医者もいるとのこと。

    昔は病気になれば医師の診断のもと治療が施され、手の尽くしようがなくなった時が人生の幕を閉じる瞬間だった。

    しかし今は医療の進歩によって皮肉にも”命を延ばす”ことが可能になり、”管に繋がれた状態”で日々を生きる人が増えているのが現実。

    多くの延命治療は苦痛を伴うのも事実で、家族としては本人に長生きしてもらいたい一心で延命治療にゴーサインを出し、その結果本人の苦しむ姿を目の当たりにするケースも少なくないのだとか。

    名医のケース①

    「治る見込みがあれば延命治療を受ける。可能性が高くないと判断したら受けない。」

    この先生は自分が若い頃に医者として可能な範囲の治療を最後まで続けていたが、結果として出血やむくみ、黄疸が出て、生きたまま人体が腐るようになっても治療を止められず悲惨な状態になった患者をたくさん見てきたと言う。

    無理矢理食べさせ、点滴し、酸素マスクをして数日や一週間寿命が延びても本人が苦しむだけ。

    高齢で寿命が近づいた患者に対して医療は無力だと感じたそう。

    また、多くの人は延命治療に幻想に近い期待を抱いて現実を見ようとしないとも。

    自身の父親は認知症で寝たきりだったが、延命治療を望まず自宅で看取り、母親も祖父母もみな家で死を迎えたと言っている。

    そういう経験上、過度な医療を受けずに死ぬことが最も穏やかで好ましい死につながると確信したそうだ。

    名医のケース②

    「治療しても以前の状態に戻らないのであれば延命治療は受けない。」(例えば脳出血で脳の中枢をやられて意識が戻らないなど)

    この先生は延命治療とは何か、自分はどう生きたいかという価値観にまで踏み込んで話し合っておいてほしいと考えている。

    完全な答えでなくても、何かがあった時の判断にする根拠になるから。

    自身の父親が急病のため亡くなる少し前、延命治療について話す機会があったそうで「機械に繋がれてまで生きたくない」という父親の思いを聞いていたので、実際に倒れた際、救急医とスムーズな意思疎通ができたと言っている。

    「もう治療はいりません」と医師に宣告し、配偶者や親の死を後押しするのは家族にとって十字架を背負うに等しい。

    確かにその通りで、本人の意思をクリアに伝えておけば家族が苛まれる罪深さや自責の念を軽減できるはず。

    自分の場合はどうだろう・・・

    祖父が施設に入所する際にも聞かれた。

    「もしも、もしも万が一のことがあった時は延命治療はどうされますか?」と。

    本当にそうなった時には再度確認の連絡をしてくれるらしいが、電話に出られない時かも知れない。

    入所手続きの時に聞かれ、母と私は一応答えを出してきた。

    認知症になってこちらの言っている言葉をあまり理解できなくなった祖父の本心を聞くことはもうできない。

    祖父の寿命を握っているのは間違いなく私たち家族。

    いずれ人は死ぬ・・・。頭では分かっていても重い十字架を背負ったことに変わりないことをこの時悟った。

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    *自分らしく生きるお金の算段

    「人生100年時代」といわれる現代で、老後資金の準備はとても大切です。

    2,000万円必要といわれていたのが、今は5,000万やら1億などと書かれている週刊誌の記事があります。

    それらを見て不安になっているご高齢の方も多いのではないでしょうか?

    平均寿命が延び、一体いくらあれば安心して老後を過ごせるのか…

     9095
    男性27.510.1
    女性52.027.1

    厚生労働省「令和3年簡易生命表の概況」より 

    上の表で分かるように、女性の場合は約2人に1人が90歳まで、約5人に1人が95歳まで生きる可能性があるといえます。

    しかし、年金額や持っている資産、生活にかかるお金などは人それぞれです。

    また、住んでいる地域によっても異なるので周囲の情報に惑わされず、まずは自分のライフスタイルを見直して検討してみましょう。

    資産管理のポイント

    ・周囲の雑音に惑わされない

    ・少しでも長く収入を得るための活動を行う

    ・投資資産は年齢を重ねるごとに縮小していく

    ・自宅のリフォーム費用、施設への入所費用も準備しておく

    ・ムダな出費を控える(保険、自動車、交際費)

    ライフイベント表の作成

    この先10年20年後までのイベントを書き出してみましょう。

    具体的に何年後にどのようなことが起きるか、そのためにはどれくらいの費用がかかるのか、ある程度把握しておきます。

    (例)

    経過年数  年 齢     人生のイベント

     今年      60    退職・再雇用、夫婦で旅行、終活開始

     1年後    61    家のリフォーム、孫小学校入学

     2年後   62    父親の3回忌、町内会の仕事を始める

     3年後     63    キャンピングカーを購入 旅に出る

     4年後   64    終活の実践を始める

     5年後    65    仕事を辞める、子に住宅資金贈与200万円

     6年後   66    夫婦で田舎に移住

    家計の支出

    家計簿をつけている人であれば、毎月だいたいの支出が分かると思います。

    年金の範囲内で暮らせるか、無理そうな場合は預貯金からいくら取り崩せば毎月暮らせるかを試算することができます。

    今まで家計簿をつけていなかった人は、まずは3ヶ月から半年ほど家計簿をつけてみて我が家の支出を確認しましょう。

    老後の生活費をどこから捻出しているかを調べたものでは、やはり公的年金が最も多いようですが定年後も働いて収入を得ているようです。

    子どもが親の収入を知ることができれば、いざという時に施設入所など、どれくらいの介護を受けさせることができるのかも分かります。

    親のお金だけで大丈夫なのか、子である自分たちが援助しなければならないのかが明らかになるので、家族間でお金の話をしておくことも大切です。

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    *ペット(信託契約等)について

    日本では亡くなった飼い主の財産をペットに相続させることはできません。

    自分が亡くなったあと、ペットはどうなってしまうのか心配ですよね。

    ペットといえど大切な家族の一員です。

    動物を我が子のように大事に育てている方がほとんどです。

    飼い主にもしもの事態があった時のために、大切なペットを「託す相手」と「託す内容」と「託す方法」を検討しておかなければなりません。

    まずは託す相手ですが、知り合いや身近な人が引き取ってくれる場合はいいですが施設やNPO法人を頼る手もあります。

    ペットが安心して余生を過ごすための施設を運営していたり、新しい飼い主を探してくれるNPO法人を調べます。

    早めに見当をつけてボランティアなどに参加しておくことをお勧めします。

    ペットを託すにあたって、具体的にどれだけの財産・対価を準備しておくべきかも決めておく必要があります。

    生活費や医療費、また平均的なペット葬儀費用などを参考にしてください。

    かかりつけ医や病歴、ペット保険加入の有無についてもエンディングノートに記載しておきましょう。

    他にもう一つ「信託」という法律行為を活用する方法があります。

    信託とは自分の財産を信頼できる人や団体に託す、文字の通り「信じて託す」ということです。

    一般的には、他人間で契約に基づいて財産の譲渡を行い、定められた目的に従って財産の管理・処分を行う行為をいいます。

    信託を使う一番のメリットは、ペットのお世話に強制力と監視力をつけることができるという点です。

    なぜなら信託では受託者に課せられる義務があるからです。

    ①善管注意義務(善良な管理者の注意を怠らない)

    ②忠実義務(受益者のため忠実に事務にあたる)

    ③分別管理義務(信託財産とその他を分別して管理する  等

    遺言書では、ペットのお世話を頼んだとしても頼まれた人の善意に頼るしかありません。

    また、遺言書にペットのお世話の方法(例えば「このフードを食べさせてほしい」とか「この動物病院で受診してほしい」)などの要望を入れてもそれが実現できるとは限りません。

    信託では契約を開始する条件として、委託者が生きている間、希望するお世話が実現できているか見守る設計も可能となります。

    (最初に信託を設定する際に数十万円の費用がかかります)

    大切な家族の一員でもあるペットを自分が万一の際にどのように守っていくかも、現代のペット社会では考えておかなければなりません。