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    *ゆりかごから墓場まで

    老衰やがん、認知症などの進行によって医学的に治療や延命が不可能になった状態で、余命が数ヶ月ぐらいだと想定される時期を『終末期』といいます。

    この場合、ほとんどが要介護状態を経て最期を迎えます。

    介護度が上がり、認知症が進行すると、日常的な言語的コミュニケーションが難しくなるので、本人に対して現実見当識を求めるのではなく、仕草や表情を読み取って、本人にとっての心理的真実をそのまま肯定的に受け止めていくようなコミュニケーションの仕方が重要になってきます。

    私の祖父も認知症が進み、ほとんど喋らなくなりました。

    面会の時に「私は誰?」と聞いても何も答えず、しつこく聞いて、やっと「ま・・・ご」と言うぐらいです。

    1年前と比べたら表情も乏しくなり、その時何を考えているのか、どうしてほしいのかを読み取るのは非常に難しいです。

    このような非言語的なサインを読み取りながら進められるコミュニケーション技術は、一方で昏睡状態の人とコミュニケーションする技にもつながるのです。

    これは母親が直感的に赤ちゃんのニーズを読み取って世話していくプロセスにも通じるものがあります。

    終末期のケアにおいては、人生最初期のケアに関する経験も役に立つのです。

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    *前世や来世という視点

    『お迎え現象』という言葉を聞いたことがありますか?

    終末期になると、すでに亡くなったご先祖様が近くに来ているように感じて、話しかけたりするようなことがあるそうです。

    一般的には病院より在宅の場合に多く見受けられる現象です。

    病院だと、せん妄(意識が混濁して幻覚や錯覚が見えるような状態)と診断されて治療の対象とされてしまうからです。

    仏教心理学では、死の間際に現れるイメージ(現象)を3つのタイプに分類しています。

    その一つがお迎え現象です。

    これは来世を象徴するものだと考えられています。

    例えば天人が迎えに来たり、紫色の雲がたなびいたり、良い匂いがしたりすることもあるようです。

    二つ目は来世を決める業。

    今回の人生で行った行為の中で来世を決定するために最も力を持つ業をなした時の様子があたかもその現場にいるようにありありと思い浮かぶと言います。

    走馬灯のように人生を回想すると言われているものに近いものです。

    三つ目はその業を象徴するイメージで、誰かに良いものを渡したことを象徴する美しい花であったり、命を奪ったことを象徴する血塗られた刀であったりするそうです。

    終末期は今回の人生の振り返りをすることができます。

    来世という語りの舞台で「次はこんな仕事がしてみたい」とか「次はこんな人と結婚してみたい」という希望が出てくるかも知れません。

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    *人生で大切な5つの仕事

    1. 人生の意味を見つけ出すこと
    2. 自・他を許し、許し合うこと
    3. 「ありがとう」を伝えること
    4. 「愛しているよ、大好きだよ」を伝えること
    5. 「さよなら」を告げること

    死の間際に人は何を成し遂げようとするのか?

    ホスピス医のスコット・エヴァリィは、終末期における人の魂の働き方について、5つのテーマにまとめています。

    「さよなら」を告げることについてですが、人生には終末期における『大きなさよなら』だけではなく、私たちには毎日の生活の中で様々な『小さなさよなら』があります。

    私の場合、夫を仕事に送り出す時が『小さなさよなら』です。

    「行ってらっしゃい」と送り出したあと、もしかしたら通勤途中に事故に遭うかもしれません。

    このように学校や仕事に出かける時、また遊び終わって家に帰る時など、人は『小さなさよなら』を繰り返しています。

    小さな子供にとっては、親がトイレに行くことさえ『さよなら』になるのです。

    子供に対し「おトイレに行ってくるけど、すぐに戻るからね」と丁寧に説明することが、いつくるか分からない最期の時に備える大切な準備の積み重ねになります。

    普段、当たり前のように生活していますが、終末期でなくとも人の人生はいつどうなるか分かりません。

    そのことを頭に置き、毎日を大切にしたいですね。

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    *死は誰のものか

    以前ブログの『具体的な終活』の中で延命治療について書きました。

    その中で安楽死と尊厳死の違いを説明しましたが、自分の最期を考えることは終活をする上で大切なことです。

    スイス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、アメリカのオレゴン州やワシントン州では法的に認められている安楽死ですが、患者からの自発的な要請に応えて医師が執行した場合に責任を問われないという形での承認になっています。

    一方、終末期の患者本人の意見に基づいて過剰な延命措置をせずに人間としての尊厳を保って自然な死を迎えるのが尊厳死です。

    自分の最期はどうしたいか、その希望を家族や医療者に伝えておくことはとても重要です。

    延命治療を希望しないのであれば、自分の意思を全うするためにも尊厳死の意向を示す書類、尊厳死宣言書(リビング・ウイル)を作成するのがいいでしょう。

    リビング・ウイルは、本人が医療者からの説明を受けた上で、意思表示をすることができなくなった場合にどのような医療的処置を望むかに関して事前に詳細を指定する書類です。

    尊厳死宣告書(文例)

    (リビング・ウイル)

    私〇〇は、私の傷病が不治であり、かつ自らの死期が迫っている場合に備えて、私の家族及び医療にかかわっている方々に以下の要望を宣言します。

    ①私の傷病が、現代の医学では不治の状態であり、既に死が迫っていると診断された場合には、ただ単に死期を引き延ばすためだけの延命治療はお断りいたします。

    ②ただしこの場合、私の苦痛を和らげるためには、麻薬などの適切な使用により十分な緩和医療を行なってください。

    以上、私の宣言による要望を忠実に果たしてくださった方々に深く感謝申し上げるとともに、その方々が私の要望に従ってくださった行為一切の責任は私自身にあることを附記いたします。

    記入日   年  月  日

    氏名                           印

    電話番号                                

    生年月日                                

    性別[    ]                                 

    「死は誰のものなのか」

    本人の自己決定だけを主張するのであれば、安楽死における患者本人の「死ぬ権利」を重視する流れに抗することは難しくなってきます。

    生まれてくる現場においても、「命を授かる」側面に加えて生殖医療によって「命を作り出す」側面が出てきたために、出生前診断などの新たな問題が発生してきています。

    尊厳死の問題は、医療技術の進化に伴って本人の自己決定権を踏まえた上で「死は誰のものなのか」という問題に関して考え直していかなければならない現実を突きつけているのではないでしょうか。

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    *さまざまな喪失

    私は終活ライフケアプランナーの資格を習得するにあたり、生きている間にする終活についてはもちろんのこと、終末期や死生観についても学びました。

    終末期の方とどう向き合うのか、死は誰のものなのか、死ぬ前はどういう状態になるのかなど、重い内容に勉強中は気分が落ち込むことも少なくありませんでした。

    しかし、その中で『あいまいな喪失』という言葉を知り、悲しみに対する向き合い方も少しですが分かったような気がします。

    東日本大震災による行方不明者の家族支援のために広く認知され始めた概念で、『あいまいな喪失』には「さよならのない別れ」と「別れのないさよなら」という二つのタイプがあります。

    家出や行方不明者のように、身体が不在になってしまったのに心の中にはまだその人がしっかりと存在しているようなタイプの喪失が「さよならのない別れ」です。

    一方、認知症やワーカホリック、家庭内別居のような状況では、目の前にその人の身体が存在しているのに心の中では「父親・母親」あるいは「夫・妻」としての相手はすでに不在になってしまっているのが「別れのないさよなら」です。

    あいまいな喪失という概念を知っておくことで、こうした状況の複雑さによって悲しみが複雑化していくことを予防できます。

    あいまいな喪失に対処していくためには、「いないけどいる」、「好きだけど嫌い」という一見すると矛盾するようなものの見方を受け入れていくことが大切になります。

    家庭内での見解の相違を許すこと、家族における役割を固定化させてしまわないこと、コミュニティの中に家族のように接することができる人を見つけていくことなどが必要になります。

    他にもさまざまな喪失があります。

    中絶や誕生死などにまつわる悲しみに関しては本人がその気持ちを語ることは社会的にほとんど認められていません。

    こうした喪失は『承認されない喪失』と呼ばれています。

    また、成長過程においても喪失体験はあります。

    下の子が生まれたために、それまで独占していた親の愛情が弟や妹に移ってしまったと感じるのも喪失の一つです。

    大切な人を亡くした時、失った人が自分にとってどんな意味を持っていたのかを見出せると、その人のいない人生を生きていく心の準備ができます。

    悲しみは消えるものではありませんが、泣き笑いながら思い出せるようになると、人生の一部として抱えながら生きていけるようになるのです。

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    *高齢者終末期の3パターン

    終活を進める中で、やはり意識しなければならいのが「死」についてです。

    これがあるから終活をしたくないという人もいるのではないでしょうか。

    私のような40代と80代の人では「死」に対する考え方も全然違うと思います。

    40代の人がこのまま健康に過ごすことができれば、不慮の事故にでも遭わない限り「死」はまだ先のことと思えます。

    単なる順番からいえば80代の人が先に亡くなるでしょう。

    しかし人生は分かりません。

    先日お坊さんのYouTubeを観たのですが、視聴者さんからの質問にお坊さんが答えるという内容でした。

    その視聴者さんは寿命に関する質問をしていたのですが、「たくさんの死を見てきた私でも命に関しては分からないことが多い」とお坊さんは仰っていました。

    『寿命がいつ来るかは分からない→諸行無常

    死は歳をとった順番ではない。

    知らず知らずのうちに勝手に期待して、間違った考えを持っている→幻想の安心感』

    と、説いておられました。

    確かにそうですよね。

    悲しいことですが、生後すぐに死んでしまう赤ちゃんもいます。

    100歳を過ぎた高齢者もいます。

    寿命は誰にも分かりませんが、ある程度年齢を重ねると自分の最期を考えたりしませんか?

    病気で死ぬのか、老衰なのか・・・

    今回は、高齢者の終末期について説明したいと思います。

    がん

    がんの場合は、死亡の数週間くらい前までは比較的機能が保たれ、急変して死に至るというパターンが見て取れます。

    体調不良から病院に行き、余命宣告をされたとしてもある程度準備しておくことができます。

    手術や抗がん剤治療などをして病気とつきあいながら生活をしている人もいるでしょう。

    しかし急変によって、希望していた場所での最期が迎えられないこともあります。

    臓器の慢性疾患

    臓器の慢性疾患の場合には、悪化と回復を繰り返しながら最期を迎えるパターンが見て取れます。

    風邪が引き金になって悪化する場合も多いので、感染予防が大切になります。

    また、経過の後半では治療しても回復するかの予想が困難となるため、「今後良くなるだろう」という家族の予想が裏切られて後悔が残ることも少なくないようです。

    死に対する心の準備をしておくことも重要です。

    老衰や認知症

    老衰や認知症の場合には長い時間にわたり徐々に機能が低下していきます。

    長期間にわたるため、家族の介護負担についても考えなくてはなりません。

    本人の意思を確認することは難しくなりますが、ある程度予測しうる経過をたどって、住み慣れた環境や関係の中で最期を迎える可能性は高くなります。

    高齢者の終末期には3つのパターンがあることが知られています。

    どのような最期になるかは分かりませんが、死ぬその前までどんな人生を送ってきたのか、どのように生きてきたのか、そこが重要だと私は思います。

    for a happy ending(幸せな結末のために)

    「死」について考えることで、今を大切にできるのではないでしょうか。

    どんな老後を送りたいか、どんな最期でありたいか、ぜひ自分自身と向き合ってみてほしいです。